2009年12月22日火曜日

冬の夕方に思うこと


 一番の関心ごとは、結構、書いたり言ったりできないものではないでしょうか。しかし、それが専門分野ならではの発見だったら? 当事者ならでは知っているある真実だったら? いつか、リタイヤしたらやろう、時間ができたらやろう、と考えている事は、誰でも、一番大事なことだったりしませんか。
 そして歴史上、重要だからこそ、日常的に表に出せないことが、たくさんあるに違いありません。
 戦争博物館の映像を思い出します。ホロコーストを生き残った方が語っていたことです。「自分の子供や孫たちに、当時の話を全くしないできた。あるとき、子供に「何か知ってるの?」と聞かれて、やっと話す事ができた」と。
 もう、1つの例として、前回のブログから、もう一度、取り上げます。田中克彦氏の『ノモンハン戦争』に関して、でしたが、他の多くの専門家の方々にも、同様の「一番の関心ごと」があるのではないか、社会的に勿体ない、と思います。

 田中氏自身、この戦争は「日本でひた隠しにされて部分が多い事は知られていたが、勝った側のソ連・モンゴルにとっても、とてつもなく大きな問題が隠されている事がうすうすわかっていた」にもかかわらず、司馬遼太郎からの問いにも応えなかった経緯があるのだそうです。「モンゴル、ソ連、日本代表による会議において発表されたモンゴル現代史の教える知識を積み重ねて考えているうちに、うすうす考えていた事は、ほとんど歴史の事実とも一致しているという気がしていたけれども、私のような小心者に、その「うすうす」のところが書けるはずがなかった。「しかし研究者にとって、小心は卑怯と紙一重の悪徳である」という思いにさいなまれて始め、、、しかし、出逢う研究書に押され、、、

「何よりも今年はあれからすでに70年、あの戦争から生きて帰ってきた兵士のすべてがもう90歳を超えているし、何よりも、私自身が、とても若いと言えない年齢に達してしまった。そこで、思い切って書いてみたのがこの本である」




 

2009年12月14日月曜日

田中克彦の『ノモンハン戦争』

「一般に戦争は何なのかを考える上で、参考になればと願う」(序文より)

『ノモンハン戦争 〜モンゴルと満洲国』(2009/岩波新書)著者:田中克彦(言語学者、モンゴル学者)。

 私は、田中克彦氏には10年ほど前にお世話になったことがあり、その人となりを知り、以来著書を手に取るようになりました。特に、当書は私の関心ごとである「個人の日常の記憶〜社会的情報の流れ」を考えていく上で、背中を押してくれる一冊です。「個人の野心」で戦争が始まったこと、そして「個人の”ある日”の記録」の存在の大きさ、に特に注目させられました。

◆◆◆

ノモンハン戦争(事件)とは

 モンゴル人民共和国と満洲の国境線をめぐった小競り合いが発端となった戦い。当時、満洲側は日本の関東軍が中心的に関与していたので、日本軍 対 ソ連・モンゴル軍との衝突でした。1939年5月11日の衝突を開始日とし9月16日に日本軍の敗北にて終焉。戦場は、ノモンハーニー・ブルド・オボーからハルハ河に至東西約20キロ、ハルハ河に沿った南北60〜70キロの草原。経緯詳細は当事国それそれで見解は一致していないようです。現在も研究が続いています。(今年9月に日本軍事史学会でシンポジウムが開催されました)

 一般に「ノモンハン事件」と言われていますが、田中氏はあえて「ノモンハン戦争」としています。その理由を次のように書いています。「戦線布告なく非公式に行われた、「大命」つまり天皇の命令も許可もなくこっそり行った違法行為であるから、公然と戦争と呼び得る資格を欠いていたのである」。また、大量の死傷者を残し撤退したこともあり、当事者はあくまで「事件」としておきたかったのだと。実際に陸空の戦いによるソ連側の死傷者、日本側の死傷者とも約2万人にのぼる(詳細は諸説あり)規模で、田中氏は事実上「戦争」がふさわしいと定義を示しています。

田中克彦氏の視点 

 「一部の参謀たちによる思いつきの好戦的な冒険主義に近い、定見のないずさんなものだった」、それに対してソ連の構えは「思慮深く長期にわたる見通しをもっていた」と田中氏は考えを示しています。そのことをノモンハン衝突に至る前史にさかのぼって明らかにすることをこの書の目的の一つであるとし、モンゴル研究家としての詳細な調査によって、従来と違った角度で詳細に事象が語られています。そして、現在の日常の情報では容易に知り得ないけれども、時を遡らせてくれるような、ある場所、ある時刻の、たまたま記録されていた話が織り込まれています。

 当時、日本軍は兵士が日記をつけることを禁じなかったそうです。それは倒されたときに敵に重要な情報が渡ってしまうので、危険なことだったのですが。

 とにかく、残された日記から当時の情景が現れます。

日本軍兵士の日記

 田中氏は「ノモンハンの戦場は一般市民のいない、軍隊だけの、限定された純戦場と言う特殊空間だった。ここには敵の死者のことを思ったり、礼をもって葬ったりする心づかいがあり、後に行われた中国における戦場とはかなりちがった、あるのどかさが感じられる」と表現しています。兵士の日記がいくつか抜粋されていましたので、ほぼ当書の原文で記します。

7月14日 水を汲みにいく途中、敵兵1名(小銃、拳銃、銃剣を持つ)が突如現れ逃避せんとす。自動車にて追い捕虜にす。・・・・通訳官の聞きし所によれば、召集(演習)にて戦場に来た、35歳、子供2名との事。

7月24日 10時頃爆撃機、700メートルの高度をもって飛来し、5機が火の玉となって墜落す。・・・パラシュートにて露人降下す。・・貨車にてパラシュートを拾いに行く。白い傘は段々大きくなる、1名を捕虜にし、1名は抵抗せし為射殺す。

・・ソ連操縦士の、機体とともに半焼けになっておるのを引き上げ、穴を掘り墓を作る。「ソ連飛人之墓。昭和14年7月24日 山岡部隊建之」と赤星の翼に墨痕鮮やかに記す。敵小銃弾が頭上を通過する中で、黄白紫の草花を飛行機の骨のパイプを花立てして献ぐ。げに彼もソ連の勇敢なる操縦士なるぞ(砲兵一等兵 井上重也)

 調査中に一般に手に入ったのは出版されたもので、兵士の回想記録はあっても、ほとんどは同志的絆の強さを語る、官製のインタビューにもとづいたもの。しかし、一兵卒がそれぞれの思いで戦場を書き残すという文学的雰囲気を漂わせているのが日本軍兵士の手記の特徴であるとしています。

もうひとつエピソードを抜粋すると、

「生き延びて、いまおそらく90歳を超えるその人は、戦場で「マシンガンを持ったソ連兵に出くわしたが、撃たずに通り過ぎてくれた思い出」があり、その恩は忘れられない。そこで、北方領土にすむ「ロシアの子供、コンスタンチン君が火傷をして札幌の病院にやって来た時、見舞金を贈った」

そして「正史には載らないこのような話をぜひロシア人に伝えたい」と。

なぜこの本を書いたか

「私はただひたすら、英霊のために真実を話してあげたいと思った。私がもし、あの兵士たちののように果てたなら、やはりうその慰めよりは、真実を知りたいと思うに違いない。いったい、あの戦争は何のためだったのか。自分たちがあそこにいたのはどういう理由でか、・・・」

田中氏自身、この戦争は「日本でひた隠しにされて部分が多い事は知られていたが、勝った側のソ連・モンゴルにとっても、とてつもなく大きな問題が隠されている事がうすうすわかっていた」にもかかわらず、司馬遼太郎からの問いにも応えなかった経緯があるのだそうです。「モンゴル、ソ連、日本代表による会議において発表されたモンゴル現代史の教える知識を積み重ねて考えているうちに、うすうす考えていた事は、ほとんど歴史の事実とも一致しているという気がしていたけれども、私のような小心者に、その「うすうす」のところが書けるはずがなかった。「しかし研究者にとって、小心は卑怯と紙一重の悪徳である」という思いにさいなまれて始め、、、しかし、出逢う研究書に押され、、、

「何よりも今年はあれからすでに70年、あの戦争から生きて帰ってきた兵士のすべてがもう90歳を超えているし、何よりも、私自身が、とても若いと言えない年齢に達してしまった。そこで、思い切って書いてみたのがこの本である」

◆◆◆

 戦争から何が学べるのか? と問われても、具体的に何が学べるとははっきり答えることはできないものです。ただし、一つだけあるはずの事実を知ることは、これからの日々をおくるうえで、その価値を左右する基盤になるものではないでしょうか。

 また、取り立てて発表するほどのものでもない、個人の「ある一日」であっても、ある時に、どこかの誰かにとって珠玉のメッセージになることがある。それは、故意に誰かに選ばれたものではない、また、個人から個人へ時間を超えた直接の会話なのだということができるはずです。

2009年12月8日火曜日

Imperial War Museum 2


反戦の意をこめて





















Churchill Museum


反戦の意をこめて





















2009年11月24日火曜日

Imperial War Museum


反戦の意をこめて







2009年10月27日火曜日

ありがとう、をいわない日本人


池田百合子氏講演

 先の斎田記念館で池田百合子氏の講演がありました。1980年代、国際交流発展時に国内海外において「日本文化」の指導に貢献された方です。(東洋美術史を研究しサンフランシスコで州立大学教授、早稲田大学国際学部教授を歴任、1996年早稲田大学退職、現在、鳥取市歴史記念博物館名誉館長)*高校は立教女学院だったそうです。

 池田百合子氏の祖父は池田仲博、15代徳川将軍・徳川慶喜(1837−1913)の5男です。明治23年、池田家の養子となり、14代目の当主として家督を相続しました。

 講演は次の言葉から始まりました。「明治時代の生まれの親に育てられた私たちの世代も遠からずこの世を去ることになると思いまして、20世紀後半に教育に携わりました物の一人として、私の考えておりますことの一端を述べさせて頂きたいと存じます」 講演テーマは『祖父の教え親の躾』です。

日本の「躾」の文化と国際社会におけるリーダー育成

 日本には、将来の日本を背負い国際的なステージでリーダーとなる人材育成が欠けている一面があると、静かに、しかし、痛切に説いていました。国際交流において、もっとも根本的なもの、実はかつて日本にあった「躾」の文化から学ぶことができるようです。長く培われてきた「躾」は重んじられなくなりました。というより、マナー危機さえあるようです。

 ひとつ身近なテーマを紹介します。池田氏がアメリカの教授と話していて、とてもがっかりしたことがあったそうです。日本の学生は学問には熱心だけれど、大きな欠点があるようだと指摘されたそうです。英語にも敬語があるのがわかっていない、と。このことで教授や目上の人たち、支援してくれる人々へのアピールでとても損をしているようです。悪気があるわけではないけれど、相手を敬うことの表現ができない。つまり挨拶ができない。単純なこととして、基本の「Please」「Thank you」そして「Sir」「Madam」がいかに重要か認識が足りない、ということです。

公共空間で「ありがとう」を言えない日本人

 フォーマルな場合だけでなく公共空間こそが実はとても大事。サービスを受けるとき、◯◯をお願いします、ありがとう、を言わない人が日本人にはとても多い。たとえば、国際的な空間として、飛行機の中が顕著だそうです。お食事を選ぶとき、チキンか魚か、と聞かれたときに、指をさして「これ」あるいは「チキン」だけ。そのあとに、Pleaseがない。また、サーブしてもらってもだまっているだけに人をよく見かけるそうです。これが日本人の文化のマイナス評価に繋がっていくことかを考えると人ごとではないのです。この、クールなコミュニケーション、たしかに日本ではそういう傾向があるといえますね。私も以前あまり気を付けていなかったのですが、最近はどんな場面でも「ありがとう」を多く言うようにしています。と、いうのは、働いている人の気持ちが、言葉ひとつで大きく影響されるのを知ってきたからです。でも、一般に、日本では、商店やレストランでスタッフの人に「ありがとう」をいう習慣がないですね。これで慣れてしまっているので、外国に行って自然にできないのはあたりまえともいえる...。海外では、Please も、Thank youも、問題なくこなしていても、日本に帰って来ると言わない、という人も少なくないのではないでしょうか?

斎田記念館




26日、斎田記念館に出かけました。

 斎田記念館は世田谷代田から梅が丘に至る環状7号線沿いにあります。この地域は昔、代田村といって武蔵野の色濃く残る純農村地帯でした。もともと梅林で、宅地化が進む昭和三十年代頃まで残っていたそうです。ここに斎田家があり幕末に焼失したものが昭和初期に復元され、近代の数寄屋造りとして建築学的にも貴重な資料として世田谷区の文化財に指定されています。

齋田家 

 木曽義仲の老臣・清和源氏中原兼遠を遠祖と伝えられています。のち代田村に私塾発蒙塾を開くと、令名を慕い江戸より有為の士の入門する者が多かったということ。また同家からは江戸後期以降学者・文人を輩出しているそうです。

斎田茶

 明治元年(1868)十代の平太郎という人が、代々自家で小規模に生産していた茶の商品価値に着目し、同三年には伊勢四日市から製茶師を招き、本格的に製茶を開始したそうです。齋田茶は、万国博覧会や内国勧業博覧会で入賞するなど品質には定評があり、輸出も盛んに行ったということです。

 改めて感じたのは、庭、建物とも、雨なりの美しさ。人間の手を入れ込めた、きめの細かさのせいなのでしょうか。


2009年10月18日日曜日

戦争があった日常

 私の研究の関心は、個人の日常のふれあいがかもし出す限られた社会の様相。そして、それが徐々に大きな社会に関わっていくのか、というものです。そのなかから、何らかのきっかけで、マスメディアの目にとまって大きなニュースになることがあるし、社会的な情報にならないで消えていく場合がある。私が注目したいのは、その消えていく情報です。
生活の最も尋常平凡な物は、新たなる事実として記述せられるような機会が少ない。われわれの世相は常に、このありふれた道の上を推移したのであった 」とは柳田國男のことばです。
 高齢者の方々から昔の思い出を語っていただいて編集し一部を全国規模のメディアを通じて発信する活動を、私は約7年の間、継続して行ってきました。そこでは必ず戦争の日のことを伺いました。その取材記録の中では第二次世界大戦のとき46歳だった人が最高齢で、低年齢では6〜7歳(つまり体験を自ら語れる人の幅)。 その当時は多くの個人が、今のニュース一本になるくらいの経験を日常にしていたのです。そのことは多くの人が理解をしていても、具体的にどうだったのか、知られているのは僅かです。親から子に、個人的に語り継いでいくには限界がありますし、どんどん遠のくばかりです。
 ごくごく一部の方々ですが、インターネットに手記を発表されています。いかに貴重なものなのか言うまでもないですね。そして、戦争体験者の手記のサイトを集合して発信活動をしている方がいます。次のURLです。

  ◎『戦争を語り継ごう』
  *「全般」というところで一覧が見れます。

2009年9月29日火曜日

山形の秋を

銀座 アル・ケッチアーノにて



2009年9月11日金曜日

再度、見出しについて。

7月、別のブログに書いたものなので、ちょっと古いですが転載します。
あるメジャー国際ニュースサイトに”全米の3割、ペイリン氏の適職は「主婦」と 世論調査”というのがありました。サラ・ペイリン元アラスカ州知事に関して、どんな職業が最適と思うか、という質問。
登録回答者が900人、その32%が『主婦』と回答したというものです。アメリカの人口、約3億人の3割、つまり1億人の意見ということになってしまっていいのでしょうか? 内容まで読めば自己判断できますが。ネットの場合は、記事を読む読まないは見出しで判断するでしょう。興味がなければ中は読まないけど、見出しはインプットされてしまう。情報の氾濫する中で、情報の見分け方はよけい難しくなるばかり。仕入れた情報が正確でないものの集合になってしまわないよう、気をつけないと。

2009年5月19日火曜日

TVCMの6割が

 「CMの6割、視聴者の心に届かず....」という見出しで、08年4月〜09年3月の1年間に流されたTVCM調査に関する記事*がいくつかのニュースに載っていましたね。それによると、6-89歳の男女3000人に毎月、筆記式でアンケートをが実施され、応える人は「印象や好感を持ったCMを最大5つまで記入」する、というものだったそうです。結果は、「CMを出した2019社中777社のCM計10147作品は全く記載されなかった」とのこと。これは興味深い調査だと思います。「印象に残らないCMは企業に貢献せず、日本経済のロスですらある」とのコメントがありましたが同感です。
 また民間調査会社のホットな調査結果の数字が発信されるということは、とてもよいことだと思います。
 ところで、私が気になったのは、見出しや本文書き出しの「約6割が視聴者の心に届かず」「印象にほとんど残っていないことが...わかった」という部分です

2009年5月12日火曜日

電車の遅れと家族の損害賠償

 さきほど中央線に乗られた方からのお話です。事故が発生して電車が遅れることがしばしばあるので、三鷹方面〜新宿間をいつもプラス30分の余裕をみているそうです。そして、今日もまた起きたそうです。事故の意味、わかりますか? 飛び込みです。あるご家族の語ったところによると、鉄道会社から2200万円の費用請求されたそうです。これは、基準に則り計算をしたものということで、そのままお支払いしたそうです。
 この仕組みがあることを知っている人はどれくらいいるのでしょう。もし、知られていたら、ご家族のために思いとどまることも、きっとあったと思います。
 このようなことこそ駅のポスターで、しっかり告知をするのが大切ではないでしょうか。