2009年12月14日月曜日

田中克彦の『ノモンハン戦争』

「一般に戦争は何なのかを考える上で、参考になればと願う」(序文より)

『ノモンハン戦争 〜モンゴルと満洲国』(2009/岩波新書)著者:田中克彦(言語学者、モンゴル学者)。

 私は、田中克彦氏には10年ほど前にお世話になったことがあり、その人となりを知り、以来著書を手に取るようになりました。特に、当書は私の関心ごとである「個人の日常の記憶〜社会的情報の流れ」を考えていく上で、背中を押してくれる一冊です。「個人の野心」で戦争が始まったこと、そして「個人の”ある日”の記録」の存在の大きさ、に特に注目させられました。

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ノモンハン戦争(事件)とは

 モンゴル人民共和国と満洲の国境線をめぐった小競り合いが発端となった戦い。当時、満洲側は日本の関東軍が中心的に関与していたので、日本軍 対 ソ連・モンゴル軍との衝突でした。1939年5月11日の衝突を開始日とし9月16日に日本軍の敗北にて終焉。戦場は、ノモンハーニー・ブルド・オボーからハルハ河に至東西約20キロ、ハルハ河に沿った南北60〜70キロの草原。経緯詳細は当事国それそれで見解は一致していないようです。現在も研究が続いています。(今年9月に日本軍事史学会でシンポジウムが開催されました)

 一般に「ノモンハン事件」と言われていますが、田中氏はあえて「ノモンハン戦争」としています。その理由を次のように書いています。「戦線布告なく非公式に行われた、「大命」つまり天皇の命令も許可もなくこっそり行った違法行為であるから、公然と戦争と呼び得る資格を欠いていたのである」。また、大量の死傷者を残し撤退したこともあり、当事者はあくまで「事件」としておきたかったのだと。実際に陸空の戦いによるソ連側の死傷者、日本側の死傷者とも約2万人にのぼる(詳細は諸説あり)規模で、田中氏は事実上「戦争」がふさわしいと定義を示しています。

田中克彦氏の視点 

 「一部の参謀たちによる思いつきの好戦的な冒険主義に近い、定見のないずさんなものだった」、それに対してソ連の構えは「思慮深く長期にわたる見通しをもっていた」と田中氏は考えを示しています。そのことをノモンハン衝突に至る前史にさかのぼって明らかにすることをこの書の目的の一つであるとし、モンゴル研究家としての詳細な調査によって、従来と違った角度で詳細に事象が語られています。そして、現在の日常の情報では容易に知り得ないけれども、時を遡らせてくれるような、ある場所、ある時刻の、たまたま記録されていた話が織り込まれています。

 当時、日本軍は兵士が日記をつけることを禁じなかったそうです。それは倒されたときに敵に重要な情報が渡ってしまうので、危険なことだったのですが。

 とにかく、残された日記から当時の情景が現れます。

日本軍兵士の日記

 田中氏は「ノモンハンの戦場は一般市民のいない、軍隊だけの、限定された純戦場と言う特殊空間だった。ここには敵の死者のことを思ったり、礼をもって葬ったりする心づかいがあり、後に行われた中国における戦場とはかなりちがった、あるのどかさが感じられる」と表現しています。兵士の日記がいくつか抜粋されていましたので、ほぼ当書の原文で記します。

7月14日 水を汲みにいく途中、敵兵1名(小銃、拳銃、銃剣を持つ)が突如現れ逃避せんとす。自動車にて追い捕虜にす。・・・・通訳官の聞きし所によれば、召集(演習)にて戦場に来た、35歳、子供2名との事。

7月24日 10時頃爆撃機、700メートルの高度をもって飛来し、5機が火の玉となって墜落す。・・・パラシュートにて露人降下す。・・貨車にてパラシュートを拾いに行く。白い傘は段々大きくなる、1名を捕虜にし、1名は抵抗せし為射殺す。

・・ソ連操縦士の、機体とともに半焼けになっておるのを引き上げ、穴を掘り墓を作る。「ソ連飛人之墓。昭和14年7月24日 山岡部隊建之」と赤星の翼に墨痕鮮やかに記す。敵小銃弾が頭上を通過する中で、黄白紫の草花を飛行機の骨のパイプを花立てして献ぐ。げに彼もソ連の勇敢なる操縦士なるぞ(砲兵一等兵 井上重也)

 調査中に一般に手に入ったのは出版されたもので、兵士の回想記録はあっても、ほとんどは同志的絆の強さを語る、官製のインタビューにもとづいたもの。しかし、一兵卒がそれぞれの思いで戦場を書き残すという文学的雰囲気を漂わせているのが日本軍兵士の手記の特徴であるとしています。

もうひとつエピソードを抜粋すると、

「生き延びて、いまおそらく90歳を超えるその人は、戦場で「マシンガンを持ったソ連兵に出くわしたが、撃たずに通り過ぎてくれた思い出」があり、その恩は忘れられない。そこで、北方領土にすむ「ロシアの子供、コンスタンチン君が火傷をして札幌の病院にやって来た時、見舞金を贈った」

そして「正史には載らないこのような話をぜひロシア人に伝えたい」と。

なぜこの本を書いたか

「私はただひたすら、英霊のために真実を話してあげたいと思った。私がもし、あの兵士たちののように果てたなら、やはりうその慰めよりは、真実を知りたいと思うに違いない。いったい、あの戦争は何のためだったのか。自分たちがあそこにいたのはどういう理由でか、・・・」

田中氏自身、この戦争は「日本でひた隠しにされて部分が多い事は知られていたが、勝った側のソ連・モンゴルにとっても、とてつもなく大きな問題が隠されている事がうすうすわかっていた」にもかかわらず、司馬遼太郎からの問いにも応えなかった経緯があるのだそうです。「モンゴル、ソ連、日本代表による会議において発表されたモンゴル現代史の教える知識を積み重ねて考えているうちに、うすうす考えていた事は、ほとんど歴史の事実とも一致しているという気がしていたけれども、私のような小心者に、その「うすうす」のところが書けるはずがなかった。「しかし研究者にとって、小心は卑怯と紙一重の悪徳である」という思いにさいなまれて始め、、、しかし、出逢う研究書に押され、、、

「何よりも今年はあれからすでに70年、あの戦争から生きて帰ってきた兵士のすべてがもう90歳を超えているし、何よりも、私自身が、とても若いと言えない年齢に達してしまった。そこで、思い切って書いてみたのがこの本である」

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 戦争から何が学べるのか? と問われても、具体的に何が学べるとははっきり答えることはできないものです。ただし、一つだけあるはずの事実を知ることは、これからの日々をおくるうえで、その価値を左右する基盤になるものではないでしょうか。

 また、取り立てて発表するほどのものでもない、個人の「ある一日」であっても、ある時に、どこかの誰かにとって珠玉のメッセージになることがある。それは、故意に誰かに選ばれたものではない、また、個人から個人へ時間を超えた直接の会話なのだということができるはずです。

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