2010年12月14日火曜日
70年を得た巡り逢い
先日、ネットで調べごとをしていて、ある分野のさまざまなサイト広範囲に飛び、かつ、徐々に照準を絞っていました。そして、あるサイトに、若かりし日の父に関する小さな思い出が綴られていたのを発見しました。父は結婚後、姓を母方に変えたので、昔の姓で表に出るのはきわめて稀少なことなのです。おそらく高校卒業以来、交友は途絶えていたのでしょう。原稿は2010年3月に書かれたものでした。日本のどこかで、高校生だった父を思い出してくれていた方がいたのは、何とも嬉しいことでした。もちろん、その方も、70年も前の友人の娘がその話を読むとはお考えになっていなかったと思います。
デジタルの世界は、想定範囲の情報収集には役立つものの、全体では混沌に向う一方のようです。このキリモミ状態の渦のなかから、実体としての自分に結びつく「生きた」情報が受け取れるとは、なんて素敵なことでしょうか。こんな「息づかい」のある時空の旅こそ、世代を超えて裾野広くあってほしいと、あらためて実感しました。
2010年7月30日金曜日
和紙職人 久保昌太郎さんを訪ねて
外秩父にある小川町は、1300年も続いている手すき和紙の技術継承の町。7月28日、現在92歳の久保昌太郎さんとご長男の春夫さんを訪ねました。久保昌太郎さんは、第二次世界大戦の3年間、「フ号作戦」と名づけられた極秘作戦にかかわりました。「フ号作戦」とは、太平洋を越えてアメリカ本土を狙った風船爆弾です。お伺いしたお話は、知恵の継承研究所の「久保昌太郎物語」に掲載しています。
詳細は(財)知恵の継承研究所へ。http://forwit.org
2010年5月11日火曜日
那須のパルサー観測所
*図版は研究室サイトより
2010年1月12日火曜日
伊藤明彦さんによる作品・被爆の実相
以下、CDの伊藤さんの序文より抜粋:
すべての核兵器保有国は他国からの核攻撃を「抑止」することを、保有の口実にしています。しかし本当の「抑止力」は、ヒロシマ・ナガサキの被爆の実相を、私たちがより克明に、より具体的に知り、核兵器不再使用、核兵器廃絶の意志を固め、広げることの中にこそある。そう信じてこの作品を作りました。
伊藤さんのプロフィール:
元NBC長崎放送の記者の伊藤明彦さんは1936年東京生まれ。その後長崎に転居、8歳のとき被爆しました(入市被爆)。早稲田大学を経て長崎放送に勤務。1968年から被爆者の声の取材を始めました。その後、2年後、放送局を退社しましたが、自費で被爆証言取材活動を継続しました。自ら全国の被爆者を訪ね声を録音するという活動。まとめたもの『被爆を語る』を各地の史料館や図書館に寄贈。
また、2006年からビデオ取材を開始、349人を記録しました。そして昨年2009年3月に亡くなられました。
元NBC長崎放送の記者の伊藤明彦さんは1936年東京生まれ。その後長崎に転居、8歳のとき被爆しました(入市被爆)。早稲田大学を経て長崎放送に勤務。1968年から被爆者の声の取材を始めました。その後、2年後、放送局を退社しましたが、自費で被爆証言取材活動を継続しました。自ら全国の被爆者を訪ね声を録音するという活動。まとめたもの『被爆を語る』を各地の史料館や図書館に寄贈。
また、2006年からビデオ取材を開始、349人を記録しました。そして昨年2009年3月に亡くなられました。
証言取材のカセットテープ版は、ウェブサイトで公開されています。1000人あまりの取材から14人を選んだもの。
http://www.geocities.jp/s20hibaku/index.html
また、2009年から、英語版が発信されています。声は当事者によるものですが、翻訳文が添えられています。
http://www.geocities.jp/s20hibaku/voshn/index.html
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