2009年10月27日火曜日

ありがとう、をいわない日本人


池田百合子氏講演

 先の斎田記念館で池田百合子氏の講演がありました。1980年代、国際交流発展時に国内海外において「日本文化」の指導に貢献された方です。(東洋美術史を研究しサンフランシスコで州立大学教授、早稲田大学国際学部教授を歴任、1996年早稲田大学退職、現在、鳥取市歴史記念博物館名誉館長)*高校は立教女学院だったそうです。

 池田百合子氏の祖父は池田仲博、15代徳川将軍・徳川慶喜(1837−1913)の5男です。明治23年、池田家の養子となり、14代目の当主として家督を相続しました。

 講演は次の言葉から始まりました。「明治時代の生まれの親に育てられた私たちの世代も遠からずこの世を去ることになると思いまして、20世紀後半に教育に携わりました物の一人として、私の考えておりますことの一端を述べさせて頂きたいと存じます」 講演テーマは『祖父の教え親の躾』です。

日本の「躾」の文化と国際社会におけるリーダー育成

 日本には、将来の日本を背負い国際的なステージでリーダーとなる人材育成が欠けている一面があると、静かに、しかし、痛切に説いていました。国際交流において、もっとも根本的なもの、実はかつて日本にあった「躾」の文化から学ぶことができるようです。長く培われてきた「躾」は重んじられなくなりました。というより、マナー危機さえあるようです。

 ひとつ身近なテーマを紹介します。池田氏がアメリカの教授と話していて、とてもがっかりしたことがあったそうです。日本の学生は学問には熱心だけれど、大きな欠点があるようだと指摘されたそうです。英語にも敬語があるのがわかっていない、と。このことで教授や目上の人たち、支援してくれる人々へのアピールでとても損をしているようです。悪気があるわけではないけれど、相手を敬うことの表現ができない。つまり挨拶ができない。単純なこととして、基本の「Please」「Thank you」そして「Sir」「Madam」がいかに重要か認識が足りない、ということです。

公共空間で「ありがとう」を言えない日本人

 フォーマルな場合だけでなく公共空間こそが実はとても大事。サービスを受けるとき、◯◯をお願いします、ありがとう、を言わない人が日本人にはとても多い。たとえば、国際的な空間として、飛行機の中が顕著だそうです。お食事を選ぶとき、チキンか魚か、と聞かれたときに、指をさして「これ」あるいは「チキン」だけ。そのあとに、Pleaseがない。また、サーブしてもらってもだまっているだけに人をよく見かけるそうです。これが日本人の文化のマイナス評価に繋がっていくことかを考えると人ごとではないのです。この、クールなコミュニケーション、たしかに日本ではそういう傾向があるといえますね。私も以前あまり気を付けていなかったのですが、最近はどんな場面でも「ありがとう」を多く言うようにしています。と、いうのは、働いている人の気持ちが、言葉ひとつで大きく影響されるのを知ってきたからです。でも、一般に、日本では、商店やレストランでスタッフの人に「ありがとう」をいう習慣がないですね。これで慣れてしまっているので、外国に行って自然にできないのはあたりまえともいえる...。海外では、Please も、Thank youも、問題なくこなしていても、日本に帰って来ると言わない、という人も少なくないのではないでしょうか?

斎田記念館




26日、斎田記念館に出かけました。

 斎田記念館は世田谷代田から梅が丘に至る環状7号線沿いにあります。この地域は昔、代田村といって武蔵野の色濃く残る純農村地帯でした。もともと梅林で、宅地化が進む昭和三十年代頃まで残っていたそうです。ここに斎田家があり幕末に焼失したものが昭和初期に復元され、近代の数寄屋造りとして建築学的にも貴重な資料として世田谷区の文化財に指定されています。

齋田家 

 木曽義仲の老臣・清和源氏中原兼遠を遠祖と伝えられています。のち代田村に私塾発蒙塾を開くと、令名を慕い江戸より有為の士の入門する者が多かったということ。また同家からは江戸後期以降学者・文人を輩出しているそうです。

斎田茶

 明治元年(1868)十代の平太郎という人が、代々自家で小規模に生産していた茶の商品価値に着目し、同三年には伊勢四日市から製茶師を招き、本格的に製茶を開始したそうです。齋田茶は、万国博覧会や内国勧業博覧会で入賞するなど品質には定評があり、輸出も盛んに行ったということです。

 改めて感じたのは、庭、建物とも、雨なりの美しさ。人間の手を入れ込めた、きめの細かさのせいなのでしょうか。


2009年10月18日日曜日

戦争があった日常

 私の研究の関心は、個人の日常のふれあいがかもし出す限られた社会の様相。そして、それが徐々に大きな社会に関わっていくのか、というものです。そのなかから、何らかのきっかけで、マスメディアの目にとまって大きなニュースになることがあるし、社会的な情報にならないで消えていく場合がある。私が注目したいのは、その消えていく情報です。
生活の最も尋常平凡な物は、新たなる事実として記述せられるような機会が少ない。われわれの世相は常に、このありふれた道の上を推移したのであった 」とは柳田國男のことばです。
 高齢者の方々から昔の思い出を語っていただいて編集し一部を全国規模のメディアを通じて発信する活動を、私は約7年の間、継続して行ってきました。そこでは必ず戦争の日のことを伺いました。その取材記録の中では第二次世界大戦のとき46歳だった人が最高齢で、低年齢では6〜7歳(つまり体験を自ら語れる人の幅)。 その当時は多くの個人が、今のニュース一本になるくらいの経験を日常にしていたのです。そのことは多くの人が理解をしていても、具体的にどうだったのか、知られているのは僅かです。親から子に、個人的に語り継いでいくには限界がありますし、どんどん遠のくばかりです。
 ごくごく一部の方々ですが、インターネットに手記を発表されています。いかに貴重なものなのか言うまでもないですね。そして、戦争体験者の手記のサイトを集合して発信活動をしている方がいます。次のURLです。

  ◎『戦争を語り継ごう』
  *「全般」というところで一覧が見れます。